2017年5月23日火曜日

悲劇の誕生

たまたま、ある悲劇の劇を見る機会に恵まれて、余韻に浸りつつ、原作の元になった悲劇について考えるのと同時に、数ヶ月前にざっと読んだだけのニーチェの悲劇論を思い起こしていた。ニーチェの処女作の『悲劇の誕生』は、ギリシアの悲劇について分析し、二分的世界観がギリシアの悲劇の根源的なものであると指摘している。



その二つなるものとは、ギリシアの酒神と言われるディオニソス的な『陶酔』と同じくゼウスの息子である、アポロンの『理性』のようなものの融合であるとしている。暴力的な解釈をすれば、酔倒れるのも良しとせず、だからといって、ロゴス偏重主義の論理で構築するものも、悲劇の評価としては良いと結論づけられないということである。

もっとも、ここまでの文章は、酩酊の元、酒神バッカスによって導かれているものであるから、アポロン的な立場から見たら文句の一つや二つつけられてもおかしいものではないものである。しかし、ローマのよく引用される格言にIN VINO VERITAS(葡萄酒の中に真実)と言われるように、バッカス的な陶酔から暴かれるような事実もあるのではないか。

もっとも、劇や舞台を作るときに、準備の段階では勿論理性的に計画するものの、本番はちょいとばかしのアルコールを嗜んで、陶酔を味わいつつ演じることを責任者に主張したことがあるから受け入れられることはなかったが。

観劇していると一種のジレンマに襲われる、それはプロットをきちんと理解してお行儀よくしていようとする意識と、劇自体に感情移入し、野次でも茶々でも入れてしまいたいような気持ちである。

だけどそんな場においても社会性がまさってしまう弱い自分だから、黙りこくってフムフムとみんながするように静かに押し黙っている。ニーチェを通して(ニーチェは劇を対象に論じているものではあるけれども)見ている側に葛藤を要求されるようなものだった。

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