2017年5月27日土曜日

砂漠論II

砂漠論に引き続いて。
僕がこんなにも砂漠について述べることがあるというのはサン=テグジュペリのある文章に由来する。
大地は僕ら自身について万巻の書よりも多くを教えてくれる。なぜなら大地は僕らに抗うからだ。人間は障害に挑む時にこそ自分自身を発見するものなのだ。ただし、障害にぶつかるには道具が要る。鋤や鍬が要る。農夫は土を耕しながら、自然の神秘を少しづつ暴いていく。そうやって手にする真実は、普遍的な真実だ。
サン=テグジュペリ 『人間の大地』渋谷豊訳 序文





砂漠の対極にいる森の民の日本人は、砂漠の感覚を知らないかもしれない。

地理学者の先生が書いたものでかなり大雑把なところもあるけれど、大筋はなんとなく了解できる。

ここで先生が書いているのは、森林的思考砂漠的思考という二つの思考パターンである。

森林的思考


森林的思考は、ある程度、恵まれた環境にいて「見出す」思考の方法である。

例えば、その日に何をするのか、を天候によって決める。
今日どこに行こうかは環境に見出す。
また、四季があって一年草が芽生えて死んでいくのを目撃する。

つまりは、物事を区切りを持って、意識する考え方だから、永遠といったような考えを持たないで、変化の内に生きているということになる。

砂漠的思考

対して砂漠的思考は、で移動しなければならない。砂漠論でも言った通り、砂漠での移動はオアシスを基本に点と点を繋ぐ仕方で行われる。また、四季の変化に乏しい砂漠では、区切りといったものを見出すのもむずかしい。
砂漠では、人は自分の若さが無機質な風景の中ですり減っていくのを怖れはしない。逆に自分から離れたところで世界全体が年老いていくように感じるのだ。木々は果実を実らせ、大地には麦が育った。女たちはすでに美しい。だが、季節は流れる。急いで帰らないと手遅れになる・・・
サン=テグジュペリ 『人間の大地』渋谷豊訳 VI砂漠にて

森林的進行の人間は永遠を知れない。知ることができないと言った方がいいのかもしれない。
私たちは自分が老いることを知っているけれど、周りが老いることを知らない。

永遠という言葉の中にそれを見出す。


それが砂漠的思考なのである。

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